commuter town

ベッドタウン (bed town) とは都心へ通勤する人の住宅地を中心に発達した、大都市周辺の郊外化した衛星都市を指す言葉。 ベッドタウンは和製英語であり、英語では「commuter town」、「bedroom town」、「bedroom suburbs」、「dormitory town」などと呼ばれる。

クリープハイプのアルバムが泣きたくなるほど良かった

クリープハイプ2年ぶりに新しいアルバムを出した。

 

めちゃくちゃ良かった。

 

いつかのベストアルバムなんて比にならないくらい、本当の意味でベストなアルバムだったと言っても言い過ぎではなんじゃないかと思う。このアルバムでクリープハイプを初めて知る人が羨ましい。

初めて聴いてからおよそ5年が経ち、ひとに教えてもらって知ったはずなのに、語り合えるような人がいなくなってしまった。かなりこじらせてしまったファンの、衝動のままに書いたしがない感想でしかないが、残しておきたいのでここに書いておこうと思う。なんせCD1枚分の音楽を聴いて、今この瞬間に考えたことや思い出したことを、なんとかして残しておかなければならない! と、こんなに焦ったことは今まで無かったので、これを逃してはならない気がしている。

 

 

リリースを待つ間からいつになくザワザワしていた。

924日深夜のラジオで尾崎世界観本人が言っていたように、彼らの作品はある種の答えだから、今回は自分たちではなく誰か別の人に表現してもらうという方法をとっていた。そんな中だったからか、彼らからの発信が個人的にいちばん響いた。特設サイト(nakitakunaruho.com=泣きたくなるほドットコム)にアルバム全曲分の歌詞が解禁されたことだ。

今に始まったことではないけれど、クリープハイプの曲は歌詞がものすごく良い。思い悩んでいた若い頃に芥川龍之介とか太宰治を読んで、どうしてこんなに自分の気持ちがわかるんだろうと衝撃を受けた、というエッセイを読んだことがあったけれど、一定の人たちにとって、クリープハイプの歌詞はそんな存在になり得る。バンドマンじゃなくても、ピンサロ嬢じゃなくても、30代男性じゃなくても、「どうしてこんなに自分の気持ちがわかるんだろう」という衝撃を受ける。

全曲歌詞を読んだら、もともとものすごく良かったのに、さらに輪をかけてものすごくなっていた。エッセイや小説を書いて、短歌を詠んで、歌詞の展覧会も開いた尾崎世界観の言葉がめちゃくちゃに磨かれたんだろうか。皆使っているのと同じ日本語という道具を並べているだけなのに、本当にどういうことなんだろう。

 

 

2018926日の朝。帰省先から自宅に戻る電車の中で、先行配信されていた『栞』以外の曲が到着していることに気づいた。ワンマン運転の電車で自宅へ向かいながら聴いて、衝動のまま書きなぐった、全曲への感想も残しておきたい。(本当にすいません)

 

全曲タイトルが公開された時、1曲目から閉店の音楽なのが皮肉で良いなと思っていた。『蛍の光』は夕方のチャイムのような寂しげなギターで始まるから、いきなり泣きそうになる。大好きな曲の一つ『欠伸』のサビ「さよなら ばいばい じゃあね またね」といった感じで毎日ちょっとずつのお別れが繰り返されて日々は過ぎていく。そうこうしているうちに「またね」だけが出来なくなるんだよな、と、ちょっと冷静に考えられるようになってきた頃に曲が終わっている。

1曲目の余韻もそこそこに、ほとんどイントロが無く2曲目が始まる。全曲歌詞解禁時になって、歌い出しを読んでようやく『今今ここに君とあたし』は「昔々あるところに」の言い回しから来ていると気づいて震えた。発明にもほどがある。震えた衝撃もあったけれど、今の好きな人と本当に他愛のない話をして過ごすあの何にも代えがたい時間のことが思い出されてしまったので何度も繰り返し読んだ。「いつもニコニコ君とあたし 何の確信も無いけどね/いつだって今が面白い」と、「あたし騙し騙しなんとかやってるこの暮らし」から「とか言ってるだけだから」までのかたまり、至宝だ。「したいしたいしたいしたい」と繰り返して言い切って終わるのは『百八円の恋』の疾走感を思い出す。

毎週のようにラジオで流れ先行配信もされていたので、すっかり耳に馴染んだ『栞』は、爽やかでいかにもリード曲という感じがする。けれどめちゃくちゃ聴いているはずなのに掴みきれない。改めて歌詞を読んだら、一箇所だけ句読点があることに気づいた。「句読点がない君の嘘はとても可愛かった」の部分を聴くたびどんな嘘だったのか考えるけれど、まだこれだという答えが見つからない。いつか見つかってしまうのかもしれない。

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『おばけでいいから早く来て』のイントロを聴きながらやっぱり「みんなのうた」現役世代の将来に思いを馳せた。物心つきたての頃にテレビで聴いた音楽を、色気づきたての頃にどこかで聴いて驚くんだろうか。「転校生」や「校庭の隅に二人、風が吹いて今なら言えるかな」のような、子ども目線で歌われる歌詞ほど鋭く刺さるのは、子ども時代が誰にでもあったからだろうか。

2曲目から『イト』までの流れが駆け抜けるようだったのでまんまと乗せられてしまった。いつかのライブのセトリだった気がしてくる。もう何度も聴いた曲で新鮮な感想は思い出せないけれど、これはどっちの漢字変換なのかなと聴きながら考えるくらい、ダブルミーニングの単語を意図的にたくさん入れているのかなと思った記憶がある。しかもどっちに聴こえても良いようになっていると思う。「踏み外しても転がる意思」のところ、完全に「石」だと思っていたから、改めて踏み出すくだりから読み直したらめちゃくちゃ励まされてしまった。

これはマジでどうでもいい話だが、ちょうど数ヵ月前に引っ越しをして、しかも複数人で住んでいたところが解散して一人で住み始めたものだから、『お引越し』を全くもって冷静に聴くことができない。「これはどっちのだったっけ/このまま忘れてしまえばいいか」がかなり胸に迫る。誰かとの暮らしはキラキラしていたけれど、終わってしまった今になると、そうやって忘れてしまいたいことが山ほどある。楽しい暮らしは終わってしまうけれど、自分の暮らしは終わらない。生活は続くから、確かにあった生活のことが全然忘れられない。最後の最後に高い声で歌われるのがまたつらい。ものすごく好きな『さっきの話』という曲のことをが思い出されて困ってしまうわ。

『陽』は、「もうすぐ着くから待っててね」の時からありえないくらい優しかったのに、優しさがマシマシになっていて半泣きになってしまった。知らないイントロが鳴って、知っている歌い出し。「無理に変わらなくていいから/代わりなんかどこにもないから」なんて言える人がいるなんて。最後の歌詞の一番最後が「休日」から「平日」になっていてさらに震えた。これでは明日からも頑張れてしまう。

突然の壮大なストリングスにキョトンとしていると、聴き慣れた声がしてきてさらに混乱する。『禁煙』のサビは泣き叫んでいるみたいだ。昔の恋人のことを歌わせたら右に出るものがいない。

『泣き笑い』のサビの「答えはないけど手をあげてよ」はもはや真理だと思う。形とか名前がないものを、どうしてこうも表そうとできるんだろうか。

短歌について穂村弘が、日常に根ざしていて、些細であればあるほど良いとされている的なことをユリイカで言っていたのを覚えている。(あったはずの本が見つからないので引越しの過程で誰かの家に行ってしまったのかもしれない。)『一生のお願い』という言葉が背負う重さと、「そこのリモコン取って」「加湿器に水入れて」の間にはあまりにもギャップがありすぎて、完全に穂村弘が言う短歌の感動がある。ずっと一緒にいようって言えるのに、つきまとうそこはかとない不安。『寝癖』の時も思ったけれど、全員が見ないようにしているまさにその部分にスポットライトでガンガンに光を当てようとするのがエグい。

ニゾンで始まるイントロから『わたしを束ねて』が長谷川カオナシの曲だということがわかる。カオナシは詩というよりおとぎ話寄りの物語と曲調で、これもこれで超良いと思っていたけれど今回の掴みどころの無さは今までとどこか違う。既存の何かに束ねられないから、彼の思う壺なのかもしれない。そんなことより、どんどん歌うまくなってないですか。(前から上手だったけど)

『金魚(とその糞)』は、怒ってる方にも怒られてる方にも共感を覚えてヒヤヒヤしながら聴いてしまう。『あの嫌いのうた』が好きで、言い当てられたと感じていた頃があったわたしは「大体大大大嫌いだ こんな自分が」で「ああ〜」と同感し、直後の「とか言って逃げるな」で頭をぶたれた。

『燃えるごみの日』は一段とキラキラしている。「そばに居なくてもわかる程 笑っていてください」なんて言葉が聴けるなんて微塵も思っていなくて、完全に油断していた。

『ゆっくり行こう』、曲はもちろんだが、本田技研工業株式会社「Me and Honda」のビデオ、これが、本当に、めちゃくちゃ良い。

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 「そんなに簡単に   変わらないよ」とまで言われる。これは紛れもなく、変わろうとしたことがある人からの、変わろうとしている人への言葉だと思う。

 

 

今から4,5年前のことになる。夏のある日、当時通っていた予備校で、先輩が着ていたティーシャツにピンク色で意味のわからないカタカナが書かれていた。なんだか頭に残ったその文字列は、後日見たあの日焼け止めのCMの右下で見ることになる。そこから、目をむいて歌う挑発的なボーカルに「◯◯しよう」と嬉々として答えるファンの姿を知るのにそう時間はかからなかった。

自分でも思ってもみなかったところで共感をおぼえてしまう歌詞、爽やかな曲からも滲み出る絶妙なエロさ、ボーカルの歌声がやみつきになってしまった。Tシャツを着ていた先輩からCDをめちゃくちゃ借りた。取り憑かれたように過去の曲をディグった。先輩と付き合うことになった。そんなとき辿りついたのが『ねがいり』という曲だった。「今日は何もないただの日だ」という歌い出しがとても好きになった。『寝癖』のカップリングでリリースになった年に、先輩と別れた。

 

クリープハイプの音楽を、もう「世界観」なんて言葉で形容するのは難しいのではないだろうか。このアルバムで描かれるのが、誰にでもある「何もないただの日」のことに他ならないからだ。どんな綺麗な女優にも、大統領にも、バンドマンにもピンサロ嬢にもある、どうしようもない部分。このアルバムを聴きながら昔の曲のことも思い出されたから、実はクリープハイプはずっと前からこのことを歌っていたのかもしれない。このアルバムを聴いてやっとそのことに気づいた。

毎日は本当にどうしようもなくて、でもいつか終わる。寝て起きてごはんを食べて、どこかに行ったり誰かと喋ったりして、帰って寝て起きての繰り返しでしかないクソみたいな日々のことを、尾崎世界観は「泣きたくなるほど嬉しい日々」と名付けた。

 

誰かとの日々が終わっても自分の暮らしは終わりにできないから、たまに滅入ってしまう。けれど終わらないものとか、変わらないものがある。

それはあの頃確かにあった日々そのものかもしれない。1枚の写真かもしれない。離れて暮らす犬のことかもしれないし、もう会えない祖母の顔かもしれない。あの人に練られた、あの子に言われた言葉かもしれない。それら全部かもしれないし、もっと違うことかもしれない。

でも、一つも無いわけではない。だからまあそれで良いじゃないか。終わりが来るまで付き合っていこう。どうしようもない過去はなかったことにはできないけど、だから大事にできることがあるし、それそのものがあるから今があるんだし。

少なくともわたしの暮らしには、このアルバムが、今までとこれからのクリープハイプの音楽がある。

 

ぐちゃぐちゃ書いたら恥ずかしくなったしどこまで自分で考えたことに誠実であれたかわからない。ケースが缶詰だったり特装版もそのデザインも、ストリーミングで音楽が聴ける時代にめちゃくちゃ良いプロダクトを残そうという感じで良かった話もしたかった気がしてきた。

自信がなくなってきた中でひとつだけ確かなのは、毎度のことだけど、めちゃくちゃライブに行きたくなったということだ。もうめっきり抽選に当たらなくなってしまったんだよな。泣きたくなるほどに。